
ののかママ

最新記事 by ののかママ (全て見る)
- 保育園入園が決まったけど寂しい…。保育園に預けることへの葛藤、私はこう乗り越えました! - 2018年12月31日
- ひらがなの勉強はいつから?我が家の場合と実践している練習法をシェアします! - 2018年12月29日
- 我が家流・イクメンパパの育て方!育児に消極的だった夫を変えた4つのポイントをシェア! - 2018年12月26日
ママテク(@mamateku)ライターのののかママです。

この間、子育ての大先輩、私の母親と同じ年代の方とお話をしていたら、そんなことを言われました。
その方は、子どもが失敗しないように、間違った道に進まないように、痛い悲しい思いをしないように、一生懸命子育てに専念していたそうです。
しかし、お子さんはその方の敷いたレール通りにはいかなかった、危険を取り除いた道を歩くことなく、自ら自分の選んだ道を進んでいった、と嬉しそうに、そして時折少し寂しそうにお話してくださいました。
この言葉、子育て真っただ中の私にとって、他人事とは思えないこと。
親として子どもに何をしてあげられるのだろう?子どもの人生に残してあげられるものはあるのだろうか?子どもと向き合う毎日の中で、時折ふっとそんなことを考えます。
人生が80年あるとしたら、親と子どもが一緒に居る時間っておそらくその4分の1くらい。
そのあとの人生は子ども次第となるわけですが、人生のベースになる性格や躾、価値観はその間の親との生活の中で育まれることもとても大きい気がします。
そしてそう考えると、いうまでもなく、親としての責任はとても大きい。
先述の大先輩がおっしゃっていたように、親の思うように育たないのが子どもというところもあるのでしょうけど、最低限の躾や子どもの心を育てることには親として本気で取り組まなければ…と思う毎日です。
今日は、我が家の子どもとの接し方や向き合い方について、普段から気をつけていることを紹介したいと思います。
パッと読むための目次
子どもって自分のなんなのだろう?
うちの娘が生まれたばかりの頃、ずっと不思議な気持ちがありました。
夫の遺伝子と私の遺伝子を受け継いで私のお腹の中で育ち、出産を迎え外に出てきて、名前がついて、一人の人として役所に登録されるわけですよね。
【スポンサードサーチ】

「私の赤ちゃん」ではあるけれど、私の身体の一部では無くなった娘。
今まではお腹の中で私とつながっていた、私の身体の一部であったその生命は、生まれた時点で私とは違った個人としての人生をスタートさせる。
そんな当たり前のことがとても不思議なことに思えたのでした。
そして今、しっかりと自我が芽生えて自分の意志を主張するようになった娘と対峙していく、しつけを行っていく毎日の中で、生まれたばかりの頃に感じていたその不思議な気持ちは常に忘れてはいけないことなのではないかなと思います。
何故かというと、娘を育てていく中で、時々娘が自分の一部のような気がして、混同してしまうことがあるからです。
「〇ちゃんママ」と呼ばれることに慣れてくると、私と子どもが別々の個体であることを時折忘れてしまいそうになる。
しかし、娘は私の子どもであって、肉や血を分けた一番身近な存在ではあるけれども、自分ではないのですよね。
私には親として子どもが他人に迷惑をかけないように、きちんと自分の人生を歩いていけるように躾を行っていく必要はあるけれども、子どもは私ではない。
親子であることに違いはなくても、お腹から外に出てきた時点で、娘はもう私の身体の一部ではないのです。
一人の人としての人生をスタートさせている娘、そのことを親としてしっかり自覚し、子どもと向き合っていかなければいけないのだろうと思っています。
【子供の向き合い方】子どもを「他人」として考える
例えば、今私たち親子の乗っている船が沈没しかかっていて、どちらか一人であれば救助の船に乗ることができるような状態であったとき、私は間違いなく娘を救助の船に乗せると思います。
これは多分ほとんどのお母さんたちが感じていることだと思います。
私も同様で、子どもは自分の命より大事です。
「この子を守る為なら死ねる」し、「それこそ自分の本望だ」という気持ちでいつも生きています。

しかし、そんな大事な存在であっても、決して「自分自身」と重なることはないわけです。
親がどんなに子どもを愛したとしても、子どもは子ども。全く別の人格ですよね。
私や夫が日ごろ子どもと接する中で気を付けていること、それは、子どもには子どもの人格があるということを、しっかり認識しておくということです。
私には私の人生があるのと同時に娘は娘の人生を自分で歩いている。
親子であっても他人、子どもであっても一人の個人として尊重して向き合う、我が家の子育てのベースはその考え方です。
娘を溺愛してしまうばかりに、「この子は自分の一部」と捉えてしまうことは子どもにとっても自分にとっても不幸になるのではないかと思っています。
自分であればどれだけ傷つけても痛いのは自分、自業自得の部分も多いです。
しかし、他人にはそれは出来ません。
例えそれが自分のお腹を痛めて産んだ娘であっても、娘は私ではありませんから、行き過ぎた言葉や期待を投げすぎないようにということは常に気を付けています。
【子供の向き合い方】物事の伝え方に気を付ける
娘を他人として尊重していると、物事の伝え方にも気を付けなければいけないことがたくさんあります。
現在我が家の娘は3歳でちょうど反抗期。自分の自我を親である私たち夫婦に全力でぶつけてくる毎日です。
そして、まだ3歳。やっていいことと悪いことの区別はまだつきません。
自分の意志の通りに行かなければ大泣きになることもありますし、どこで覚えてきたのか、にくたらしい言葉を投げかけられることもたまにあります。

とはいえ、いくら個人を尊重すると言っても、危ないことはダメ、他人を傷つけることもダメ、周りの人に迷惑をかける行為もダメ、最低限のマナーも教えなければいけない、躾をきちんと行うことは親の責任としてありますよね。
頭では「根気よく伝えていかなければ」と思ってはいても、自分の気持ちに余裕がないときには娘のペースに乗せられてついつい声を荒げてしまうこともあるのですが、「この子は他人だ…」と冷静に思うことで、「娘の気持ちをいったん受け止める」ということが出来ている気がします。
子どもとか夫とか家族とは違う他人、例えば友人だったり、会社の同僚だったりの場合、意見の相違が生じても伝える言葉には気を使いますよね。
そしてよっぽどのことがなければ感情的になることも、暴力をふるうこともないわけです。
「娘のことも他人なのだな…」と常に思うようにしていると、子どもへの伝えかたにも、家族以外の他人と接するときと同じ対応が出来るようになっている気がしますし、伝わらない場合にはどんな伝え方なら伝わるのかを一々考えるようになります。
ただ、ダメ!と伝える場合と、これはこうだからやめた方が良いと伝える場合、そういうのは嫌だからやめてくれないかな?と諭す場合…。
各々の言葉の使い方で相手への伝わり方は大きく違いますよね。
相手が自分の子どもであっても、「自分ではない」「100%わかりあえることは稀」ととらえれば、言葉の使い方、話し方、伝え方を一つ一つ選んでいく作業が発生するのです。
子どもだから、家族だから、多少強く言ってもいいこともありますし、簡単に関係が崩れることもないのでしょうけれど、それだけ近い関係性だからこそ、相手を尊重して言葉を選ぶことはとても大切なことであると思います。
とはいえ、もちろん、急に飛び出すとか、お友達を叩くとか、「こらぁ!」ととっさに怒鳴ることもあります。
それは体に傷を負うことや命に危険があることだから仕方ないと思ってはいますが、怒鳴った後にもなぜそれだけ怒ったのか、ダメなのかを言葉を選んで話をすることは欠かさないようにしています。
【子供の向き合い方】無条件で大好きということを伝える
子どもと接する中で、絶対にブレさせないようにしていることがあります。
それは、「貴女のことが無条件で大好き」ということを言葉にして伝えていくということです。
我が子は、「今日〇ちゃんいい子でしょ?」とよく聞いてきます。
これは、おそらく私の両親だったり、夫の両親だったり、保育園で、「いい子だね」と言われたりしていることから、いい子であれば大人に好かれると思っているのだと思います。

しかし、私が娘を大好きなのは、娘が良い子でも悪い子でも関係ないのです。
娘がどんな子であっても、どんな外見をしていようと、関係なく、大好きなのです。
娘が悪さしたことを怒っていたとしても、娘のことを嫌いになんてなれるわけはありません。
ご飯を食べれば嬉しいですが、食べなかったとしてもその可愛さには変わりありません。
ぐずぐずして時間がなければ困りますが、それでも娘のことが好きなことには変わりありません。
時折疲れてしまっても、それはただ疲れただけで娘が嫌いなわけでもないです。
なので、我が子には「お母さんは貴女が良い子でも悪い子でも大好き」ということは特に意識して伝えています。
それは子どもが機嫌よく遊んでいるときもですが、叱る前にも必ず伝えていることです。
叱る際には特に強調して「お母さんが嫌いなのは貴女ではなく、貴女がやった悪いことが嫌い」という風に伝えています。
「お母さんは〇ちゃんのことが良い子でも悪い子でも大好きだけど、〇〇してくれたら嬉しいな」とか、「〇〇してくれないと困るな」「悲しいな」というのが常套句で、毎日子どもに言い聞かせている言葉です。
どんな感情が絡んだとしても、娘のことが大好きという気持ちを言葉にすることは決してブレさせないと決めています。
また、「いい子だね」という言葉は昔からある誉め言葉だと思うのでそれ自体を拒むわけではないのですが、「いい子でないと好かれない」と捉える子どもも多いのではないかと思います。
そして、大人の言う「いい子」の基準についてもいつも疑問に思います。
大人の言うように育つ子、大人に迷惑をかけない子、それが「いい子」なのか、ただ単に性格の優しい子や他人を思いやれる子のことを言うのか…曖昧過ぎますよね。
そして、沢山の人が居る社会の中で価値観は皆それぞれですから、この大人にとっての「いい子」があの大人にとっての「いい子」であるとも限らない。
私自身が、大人たちに好かれるために「いい子」である自分を演じて、自我を押さえ、おとなしく、誰からも怒られないように生きてきて、疲れ切ってしまっていた部分が長いことあった為、娘にはそうさせたくないという気持ちがとても強いです。
そして何より、言葉は言わないと伝わりません。
「言わなくても分かってくれる」、これはたとえそれが親子であっても、まずあり得ないと思っています。
私が子育ての中で子ども期待していることは、「お母さんが自分のことを無条件で大好き」ということはずっと心においていてほしいこと。
そのためには例え気恥しくてもちゃんと言葉で伝えていく必要があると思っています。
しかし、そんなことを言っておきながら、怒っているときなどは、ついつい「もうっ!〇ちゃん嫌い!」と、咄嗟に言葉として出てしまいそうになることももちろんあります。
でも、それはぐっと我慢です。
「嫌い」という言葉が子どもに与える影響って、大人にとってはただの軽い一言であっても子どもにとってみればとても大きいと思うのです。
「まぁいっか」が口癖で、たいていのことはブレブレの私ですが、大好きという気持ちは必ず伝えること、そして娘に対して「嫌い」という言葉は一切言わないこと、それだけは絶対に守っています。
【子供の向き合い方】他人の前で子どもをけなさない
外国人の友達がたくさんいますが、欧米のママたちと接する中で一番驚いたのは、子どもが褒められたら決して謙遜しないということです。
「〇〇君、可愛いね」というと、「ありがとう!」という言葉がまず出てくる。「可愛いでしょう?」とかのろけられることもしょっちゅうです。
「すごいね!」と言えば、「そうなの、すごいでしょ?」と謙遜なんて一切ない言葉が返ってきます。

それに比べて私が子どもの時、私の母は、私が褒められるたびに「そんなことないのよ…」といつも答えていました。
謙遜を美徳とする日本人ですよね(笑)
そして褒められていることをそんなことないのよ…というだけに留まらず、「でも、××でね~困っていてね~」と悪いところを乗せてくる母。
隣で聞いていた私はそれがとても嫌でした。大好きな母が自分の悪い所を他人に話しているということがとても悲しかったのです。
しかし、後から思えば母は私の褒められたことを実はとても喜んでいたと思います。
そしておそらく、その謙遜の言葉に悪意はなく、自慢はしない、他人に身内を褒めることはしないということなのだと大人になるにつれてわかってはきたのですが、その軽い言葉の一つ一つが、子どもの自信を削ぐには十分な威力があるように思います。
喜んでいることは言わずともわかるだろう、伝わっているだろう、そう思っていたかもしれません。
私自身海外で生活した経験があって日本人が欧米人に劣るとは思えないのですが、このような場合でどちらの対応が子どもの可能性を伸ばすか削ぐかを考えると、私が見本にしたい対応方法は断然欧米式。
私は子どもが褒められたことを素直にまっすぐに受け止め、人前であっても喜べる母親でありたいと思うのです。
娘が私の一部であれば謙遜するべきであると思います。しかし、娘は娘で私ではありません。
私にとっての娘は、我が子であり身内であっても、尊重するべき「他人」。
自分の子どもを個人として尊重するのであれば、褒められた言葉はそのまま受け取れますし、子どもが褒められて嬉しかったことは、どんどん子どもに伝えるべきだと思うのです。
たとえそれで親バカと笑われたとしても、親が褒めることで子どもの自己肯定感が高まるのであればどんどん褒めたいと思います。
また、どんなに子どもが言うことを聞かずに困っていても、それを子どもの前でほかのママ友などに相談することもしません。
もちろん子どもがいない場所で相談したり、愚痴ったりすることは親も人間なのであります。
しかし、子どもには子どもの人格がある。よその人の前で自分の悪いところを指摘されることは決して嬉しいことではないですよね。
自分の子どもであってもその尊厳は守ってあげたいと思うのです。
【子供の向き合い方】何があっても子どもの人生と割りきる
- こういう子になってほしい
- こういう価値観を持って生きて行ってほしい
親としての理想や夢、期待、沢山ありますよね。
しかし、どれだけ子どもを思って躾に力を入れたとしても、親が子どもと寄り添える時間って子どもの人生においてそれほど長い時間ではないと思うのです。

3歳の今だって一日のうち10時間は保育園で過ごし、親と離れた場所で親以外から色んな刺激を受けていて、その10時間の間で学んでくることもとても多いです。
そして、この親と離れた時間はきっとこれから成長に伴ってどんどん増えていきますよね。
子どもに期待すること、子どもをこう育てたいという思いから躾に重きを置くことはとても大切で、決して無駄なものではないと思う反面で、子どもの人生は子どものものであると割り切る気持ちも大切なのかなと思います。
とはいえ、犯罪を犯すとか、他人に迷惑をかけるとか、人の道に外れたことについては、親として責任を持ち、軌道修正していく必要も絶対にあるとは思うのでさじ加減はとても難しいところです。
子どもを個として認めながら、絶対に外れてほしくないところだけはその都度働きかけていく、それこそが「その子の親にしか出来ないこと」で、親子の信頼関係や、親としての思いであったり手腕が試される場所なのではないかと思います。
まとめ
各々のご家庭で子どもとの向き合い方がそれぞれあると思います。
子どもへの愛情、期待、理想が大きいほどに、親として子どもとどうやって向き合っていけばいいのかとても悩みますし、きっとこれは永遠に答えが見いだせないことなのかもしれません。
親として子どもと一緒に過ごせる時間はきっととても短いでしょう。
悩みながら、楽しみながら、ひと時ひと時を楽しんでいきたいです。